遅ればせながら『シン・ゴジラ』を観てきました。
こんなものは本来7月29日に観なければいけないもので、まあ8月の6日にはネタバレされても文句が言えない類の映画です。
それをネタバレもせず8月17日にまで延命できたのは、ネットリテラシー(?)が素晴らしいみなさんと、自分のメイウェザーばりのネタバレディフェンス力のおかげです。ネットのL字ガードです。やばそうなツイートは見ない(ミュートでなく目視で)。やばそうな友人には一時近づかない。護身護身です。
以下、感想です。
小室哲哉は「売れ筋路線を作るのが上手かった人」という認識は間違いで、つんくと共に計算ずくでJ-POPを変えた革命家です。
「僕の勝手な見解としては、僕ら二人が両輪となり、拍車をかけてしまった現象がある。
Jポップの『わかりやすさの追求』だ。
では『わかりやすさ』とは何か?
僕は『高速伝達』『より早く伝えようとするための方法のひとつ』と捉えている。
『できる限り、直感的、反射的に伝わるよう心がけること』」
「実は、ケータイ小説ブームの10年以上前から、歌詞における意味やレトリックをどこまで排除できるか、どこまで排除しても成立するか、実験してみたことがある。
その一例が93年のTRF『EZ DO DANCE』だ。
サビで連呼する。
英語としては間違いどころか、ほぼ意味不明だ。和製英語にすらなっていない。
しかし、日本人には伝わってしまう。
意味ではなく、感覚で伝えることで、伝わる速度を高めようという試みだった」
小室哲哉はそれでも考え、葛藤したし、元々センスもあったので、実は当時叩かれたよりも全然聴けるのですが、そこから小室氏も憂う「馬鹿にならないと書けない歌」「幼児の歌」が繁殖していきます。さらにそれは音楽にとどまらず、小学生向けの内容なのにさらにテロップを出しまくる説明過多のテレビ、セリフ少なく間合いを多くし最終的にグリーンの音楽とかでごまかすというクソ映画と、「観る価値のないもの」をどんどん増やしていきます。そして、なるべくして、観る価値のある、読む価値のある、インターネットの天下になっていきます。
そんな中、『シン・ゴジラ』です。全然意味を排除しません。説明過多にしません。「ググれカス」とばかり、すさまじいスピードで法律用語、科学用語が並んでいきます。しかも映画館でググれないのに。素晴らしいですね。
小室哲哉にはもう一つ特徴があります。
それは、内村光良氏が、小室哲哉をパロディして作ったコント(?)「ホワイトビスケッツ」のセリフの中で言っていました。
「俺の歌はサビサビサビで始まり、サビで終わる」
つまり、全部サビだと。
『シン・ゴジラ』もセリフの速さが活き、序盤からグダグダなとこがありません。もちろん確信的に、公務員の稟議のグダグダ感は最初出すのですが、「ああ、ここは前フリなんだな」とわかるし、前フリもセリフが速いのでポンポン進んでいきます。
M-1グランプリは、漫才の競技化が進み、その結果「手数勝負」(byサンキュータツオさん)になっていきました。『シン・ゴジラ』には、しょーもない映画では比較することすらできない圧倒的な手数がありました。
1960年生まれの庵野監督。『ゴジラ』が公開されたのが1954年。直撃感はわかりません。むしろ、庵野監督に直撃したのは1966年開始の「ウルトラマン」で、『アオイホノオ』でも大阪芸術大学の進級するために作ったフィルムで「実写版ウルトラマン」を作ったことが描かれており、
「誰もがウルトラマンや仮面ライダーみたいなヒーローもののフィルムを、あわよくば撮ってみたい…でも撮れないんですよ!
まず金がなくって1着ぐるみが作れない!
2ビルとかの舞台とか道具とかが金が無くて作れない!
3ビームとか特殊合成のやり直しに金がかかる!
4アクションとかできる人間を集めるだけで金がかかる!
俺はそこに気がつかなかった!」
と焔に言わしめてます。
ウルトラマンが上かゴジラが上かはともかく、完全に過去のゴジラを前フリにして、リスペクトを持ったうえでいい意味で崩して遊んでいます。
その最たるものが、ゴジラが出現してから自衛隊を出動させるまでの手続きですね。かつてのゴジラって、おそらく(全部観てるわけではないですけど)ゴジラ出てきたら即自衛隊出てきて一瞬で秒殺されてましたよね。で、その後に秘密兵器出すなり、モスラ的な怪獣を連れてくるという毒を持って毒を制す的な感じになりましたよね。
『シン・ゴジラ』は、自衛隊法6章76条の防衛出動に当たるのかどうなのかというのを延々議論され(領空侵犯なのか生物だから災害じゃないとかなんとか)「自衛隊」という言葉すら、30分くらい出てきません。
リアルだし、日本の問題を指摘してるし素晴らしいのですが、ちょっと長いかなという気がしていました。しかし、これが前フリになっていました。
セリフが速いとはいえ、リアルにイライラしてくる公務員的なやり取り。そこを経ての、はぐれ者達が集められた、反撃へと転じ出す最初の会議。そのBGMが「DECISIVE BATTLE」だったのです。シト襲来のテーマというか、ネルフ本部のテーマ的な、聴けばわかるやつです。
グダグダの政治、稟議、調整が終わり、ニッポンが反撃するBGMが「DECISIVE BATTLE」。精神的な涙腺が崩壊しました。
その他にも明らかなエヴァのセリフもありましたし、パソコンの中からのアングルとか血が大量に降ってくるのとか、ゴジラ第一形態のシト感とか、エヴァ直撃世代にはたまらんもんがありました。
あと、「溜め」ですね。簡単にゴジラを出さない、簡単にゴジラのテーマを出さない、簡単に発射しない、簡単にゴジラのテーマ(佐竹版)を出さない、簡単に「DECISIVE BATTLE」を出さない。これもエヴァイズムを感じます。…というか、ミニラがどうしたとか、くそつまらない『ゴジラ』を撮ってた過去の監督たちは恥を知ってほしいですね。
もしかしたら、日本で一人かもしれませんが、『シン・ゴジラ』を観出してから、手数のことやエヴァのことが脳裏に浮かぶと同時に、一人の天才芸人のことを思い出していました。
「テレビの視聴者はアホやから映画に行く」と豪語し、鳴り物入りで2007年に映画監督デビュー。誰もがビジュアルバムの続きであり、映画を壊す作品を期待したのですが…結果は賛否両論のものとなってしまいました。
松本監督がやりたかったのは『シン・ゴジラ』だったのではないかと、今にして思います。
既存の誰もが知っているヒーロー物を前フリにし、「自衛隊が憲法で出てこれない」など前フリを壊す設定があり、「セリフがひたすら速い」など、ヒーローものどころか、映画全体を壊す…みたいな。
そしてそれは、『大日本人』でもあったのです。人間がそのまま大きくなる、怪獣がタレントの顔、ヒーローが嫌われてる、ヒーロー無理矢理やってる、最後はアメリカに助けてもらう…など。
で、なぜ『大日本人』は『シン・ゴジラ』になれなかったのかと考えました。やっぱり決定的に、「怖いものは怖くないとダメ」だったのではないでしょうか。主人公が壊すのはいいとして、怪獣は怖くないと緊張感が出ず、松本監督を好きな人しか入れこめなくなっていたのではないでしょうか。その点庵野監督は、歴史上、もっとも強くて怖いゴジラをかっちり作って、そのうえで法律遊び、風刺みたいなのを盛り込んでいました。
そしてスピード感ですね。…グダグダ感を省くのは松本監督のお家芸であり、2005年頃までのガキとかヘイヘイヘイのトークのスピード感・手数とか神がかっていたのですが。 どうも映画は、「間が長い」「グダグダだ」という批評が多くなってしまっています。
あと、勉強したり調べてる感ですかね。戦闘機が出てくるたびにいちいち名前が出てきますし、法律や各省庁の役割とかがきちんと消化されていきます。…この細かい正しい情報の上に松本監督のボケが乗れば、『大日本人』はもっと名作になったのかなという気がします。
そして何より、そんなことより
>そんな中、『シン・ゴジラ』です。全然意味を排除しません。説明過多にしません。「ググれカス」とばかり、すさまじいスピードで法律用語、科学用語が並んでいきます。しかも映画館でググれないのに。素晴らしいですね。
これです。
ライムスター宇多丸氏がシネマハスラーの『しんぼる』評だか『さや侍』評だかで、「松本人志は大衆を低く見積もりすぎ」と批評しました。『シン・ゴジラ』。全然低く見積もってないのに、大絶賛です。松本さん、もう大丈夫です。2016年。アホも相変わらずたくさんいますが、お笑い筋肉の全力を出しきっても見てる人は見てます理解する人は理解します。映画館でわからなくてもネットで解説されます。
『真田丸』といい、『シン・ゴジラ』といい、名作連発してきて、まさかこれ以上ないだろうと思われていた大家たちが、ここに来て最高傑作を出しています。松本人志監督の次作で『シン・ゴジラ』級が出てくるのを期待しています。