『桐島、部活やめるってよ』が鬼のように面白かったので、内容について書くというより、ネタバレしながら、思ったことを書きます。独り言です。
生徒とは、先生からすれば、ただの30数人の集合体です。面談のプリントを配るのに、誰が誰だとか分けません。一斉に後ろに流します。そして30数人が、クラスに集まり、同じ景色を見て、同じ授業を受けます。ところがそこには様々な対立軸があることを『桐島、部活辞めるってよ』で再認識しました。
■運動部と非運動部
運動部からすれば非運動部は見えていない。隣にある剣道部ですら、映画研究会のことは見えていない。ただ哀しいのは、非運動部からは、運動部は見えている。そこが悔しいですね(?)
■部活組と帰宅部
部活組は輝いていて、帰宅部はなんか悶々としているし、どうも危うい。だけど「帰宅部ってレベル高くね?」というセリフにも真実がある。
■勝ち組と負け組
何が勝ちで何が負けなのかわからないし、その時点での勝ち負けなんてその後逆転するのかもしれないけど、確かにこの対立軸は存在する。ほのかな恋心を寄せる男子もいれば、10000mくらい先を泳いでいて、教室でいちゃついてる奴もいる。そして帰宅部=負け組とは限らない。
■リア充と非リア
高校時代、圧倒的に思えたリア充との差。それは、歳を経るごとに、高校時代ほど圧倒的なものではないことに気づく。だが、高校時代のリア充と非リアは、やっぱり10年経ってもリア充と非リアだったりする。それはその時恋人がいるとかいないとかは別として。バスケやってたヒロキ以外の二人は、生涯リア充なんだと思う。繰り返しますが恋人の有無関わらず。ヒロキはやばい。暗黒面に堕ちる可能性がある。
■男子と女子
一番どうしようもないときと、ある意味全盛期の人たちが共存する空間。よく考えると危険な空間だ。哀しいのは、男子は男子のことしかわからなくて、女子は男子のこともわかりつつ、一部の男子にしか興味がない。
■ヲタと非ヲタ
ヲタにとっては絶対に観るべき映画も、非ヲタにとっては何気なく入った、名前もわからない映画にしかすぎない。ヲタにとってはタランティーノは『パルプ・フィクション』であり、『キル・ビル』であり、『ジャッキーブラウン』だけど、非ヲタにとっては、「よく人が死ぬ映画を撮る人」、でしかない。というかそこまででも知ってるのって珍しいと思う。
■経験豊富なコとまだのコ
この映画が刺さった理由は何個もあるが、一つは梨紗の存在がある。山本美月が単純に可愛かったのもあるし、こういうコいたなーと思わせてくれた。高嶺の花だが、バイト先の大学生にはあっさり陥落されて、一度気を許したらとことん気を許すが、興味のない男子は存在すら見えないという。繰り返すが教室とはこういうコと映画研究会が共存する危険な空間だ。
■夢見る奴と現実的な奴
案外今を楽しんでいるようなヒロキは「未来」を見ていて、夢を見ているような涼也は「ただ、今を楽しんでいる」のではないか。
■続ける奴と辞める奴
一番輝いていたのが誰か、勝ったのが誰なのか、わからない。だけど、野球部の部長は、それなりのゴールにたどり着いたのではないか。
■桐島と非桐島
30数人に30数通りの人生がある。金曜日も土曜日も日曜日も、何かのドラマがある。その中にはヒエラルキーがあり、女王がいて使用人がいて、得点王がいて名も無きゾンビ役がいる。だが、それぞれに色んなことを抱えた個性的な非桐島が何人集まっても、桐島が部活辞めたというニュース一つに勝てない。勝ち組で部活組でリア組で、だけど辞めた奴で、おそらく悩める奴。
どんな奴やねん、桐島!